和歌劇作品紹介

「信 長」
脚本:菅沼 登
音楽:綱澤 僚・歌枕 直美
- あらすじ -

[第一部]
少年・信長の教育係であった平手政秀は、信長に、戦国の時代を終わらせる救世主になって欲しいと願っていた。しかし信長は、だらしない格好で仲間たちと町の中を戯れながら歩き廻り、自分の欲しいものが手に入らないと人を恨み、更に父・信秀の葬儀では位牌に向かって抹香を投げつけるなど、勝手気ままだった。
平手政秀は、このままでは信長の将来は立ち行かないと思い、それを直すためには自らの命を断って信長に見せるしかないと決意した。信長は政秀の遺骸に抱きつき、大声で泣いた。
成長した信長は、尾張国を振り出しに美濃国も手に入れると、足利義昭を奉じて京に入った。しかし、都の東半分を支配していた比叡山の門徒たちは信長を敵だと考え、信長と対立していた近江国の浅井長政に金銭的な援助を行った。
その様な、宗教を騙る集団が政治的な活動をするのを好ましくないと考えていた信長は、それを口実にして比叡山を焼き払った。比叡山という巨大勢力がなくなった京で、信長は、諸国の名馬を集める”馬揃え”という新たなイベントを行い、新しい平和な時代の到来を知らせようとした。
 
[第二部]
信長が生まれる五十年あまり前、地球規模の寒冷化があり農作物が不作となった。飢餓と戦争により苦しむ農民を救うため、浄土真宗の僧侶・蓮如は、阿弥陀如来による救済を説くと、そこに多くの信者が集まってきた。
ところが、他の宗派から攻撃を受けたのをきっかけに、浄土真宗の信者たちは武力蜂起して大名を追放し、加賀国や大阪(石山本願寺)に、信者が治める自治領・一種の独立国を造った。京を制した信長は、その様な自治領の存在は悪いことだと考え、石山本願寺と戦い、退散させた。
今の近畿地方を平定した信長は、全国から、様々な職種に秀でた人を呼び出して顕彰し、また伝統ある寺社を再建したが、更に西の国に向かう途上で、信長は部下の裏切りにより、四十九年の人生を終えた。
しかし、その後継者たちは、「日本」という一つのまとまった国を造るという信長の意志を引き継ぎ、戦いによって物事を解決するという時代を終わらせると同時に、全国に木綿の栽培を広め、庶民は暖かく柔らかい木綿の服を着ることが出来るようになった。
 

- 解 説 -

今の世界で最も混乱している地域の一つ、アフガニスタンは、国が数多くの部族によって分割され、その部族長が実質的に その地を統治しており、その上にタリバン勢力の台頭などイスラム教の中での宗派の対立が複雑にからんでおり、果たして一つの国としてまとまり得るのか疑問ですらあります。
ところが、今から およそ六百年前、戦国時代の日本も、多数の大名によって分割されており、また比叡山や本願寺が勢力争いをしていました。その一方で、農民たちは 自らの身を守るために、自ら武器を取って盗人などの犯罪者と戦わなければなりませんでした。
尾張の国の大名として身を興した信長は、農民など一般人が安全に暮らせる様にするため、再び日本を一つの国にまとめるための活動を始めますが、最大の問題は、国家という枠組みを超えて存在していた宗教というものを どうするか、つまり、国家の法が全てに優先するのか、それとも 宗教の教えが国家の法を越えるのか、という問題でした。
また、ちょうど信長の時代に、日本に木綿が入って来ました。信長は、いわゆる楽市楽座という政策により、木綿とそれを栽培し加工する技術の拡散を促し、また自らの領地で木綿の栽培を行い、物乞いに恵んだりしていました。
信長は、日本を一つにまとめる仕事の途中で亡くなりますが、その後を継いだ秀吉や家康は その仕事を完成させ、武士も農民も全ての人に武力でもって争い事を解決することを禁止し、平和な一つの国・日本が実現しました。同時に、木綿が全国にゆきわたり、年頃の女性は、何着も着物を持つことが可能になったのです。
 

- 公演実績 -
2010年3月13日 大阪・綿業会館
2009年12月6日 静岡・国民宿舎奥浜名湖
登録商標について:「和歌劇」は株式会社うたまくらの登録商標です。