歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.84 松山順一

 
 
江戸時代末期から150年以上続く、静岡県唯一のつげ櫛職人 松山順一さんにお話をお伺いしました。
 
 

職人への道
 
歌枕直美(以下、歌枕)
先日は「さまよえる人」、宝林寺公演にお越しいただきありがとうございました。松山さんは4代目の櫛職人ということですが、いつの頃から職人を志したのでしょうか。
 
松山順一(以下、松山):幼い頃から周囲の人に「君はやらないの?」と言われるのが嫌で、サラリーマンになりました。しかし、一応は櫛を作れるようになっておいた方が良いと思い、父に習い、30歳ぐらいで一通り櫛を作れるようなりました。
 
歌枕:はじめから職人になられたわけではないのですね。
 
松山:父は櫛を作るための道具は一通り準備してくれたのですが、何を教えるでもなく、父が作業している横に座り、その様子を見て作り方を見て覚えていきました。。
 
歌枕:お父様の姿から学ばれたのですね。
 
松山:櫛を作れるようになった当時、時代はバブルで、サラリーマンの仕事が忙しくなり、また一応は櫛を作れるようになったという安心感から、櫛職人からの気持ちが離れていきました。
 
歌枕:何がきっかけで再び櫛を作ろうと思われたのですか。
 
松山:58歳の時、父が亡くなり、四十九日も過ぎ、父が使っていた道具を片付けるために何十年ぶりに仕事場に入りました。すると、私の作業台のところに風呂敷がかかっていて、道具も手が入れてあって、そこに座ればいつでも作業できるように父が残してくれていました。まるで父に「そこに座れよ、座り方は分かっているだろ。」と語りかけてもらっているようでした。
 
歌枕:お父様からのメッセージですね。
 
松山:自分の心は決まっていたのですが、妻にサラリーマンを辞めて櫛職人になってもいいか相談しました。妻は私の気持ちをお見通しだったようで、快く後押しをしてくれました。
 
歌枕:セカンドライフのはじまりですね。そこからどうやって学ばれたのですか。
 
松山:父はただ櫛を作っていただけでなく、私が見ても分かるように、櫛の作り方を事細かに書いたマニュアルをたくさん残してくれていました。
 
歌枕:どのような内容が書かれていたのですか。
 
松山:刃物の研ぎ方やのこぎりの目の立て方などが図で書かれていました。自分の櫛製作技術が無形文化財に指定されたことで、残して伝えていかないといけないと考えたのだと思います。
 
歌枕:技術を伝えるということを形で残してくださっていたのですね。
 
松山:すぐに売り物になる櫛が作れるわけではないので、そこから1年から2年、一生懸命に練習をしました。恰好はある程度つきましたが、なかなか売るまでの踏ん切りがつきませんでした。
 
歌枕:どのタイミングで櫛を売ろうと思われたのですか。
 
松山:木曽の藪原に青柳和邦さんという櫛職人の方がいらっしゃり、そこへ何回か通い教えてもらいました。そして、ある時、真剣な眼差しで私の作った櫛を見てくれ、「ここまで作れるようになったなら売りなさい。」と言っていただきました。
 
歌枕:後押ししてくださる方がいらっしゃったのですね。
 
松山:完成の基準がないものなので、どこで線を引くか難しいことでした。青柳さんには可愛がっていただき、とても感謝をしています。
 
歌枕:櫛を売れるようになるまでの収入はどうさせていたのですか。
 
松山:収入はありませんでしたが、何とかなるもんでした。(笑)
 
 
小國神社の御神木
 
歌枕:以前に小國神社とご縁があり、何回か公演させていただいた際に、鳥居横のことまち横丁で松山さんが櫛を売られていた記憶があります。
 
松山:小國神社とも不思議なご縁で、「御神木の枝を落としたので、それで櫛を作ってみませんか。」とご連絡をいただきました。
 
歌枕:小國神社の御神木は、どのような木ですか。
 
松山:檮[イスノキ]という種類の木で、宮中で儀式用の櫛に使われるような古来から神聖な樹木とされているものです。
 
歌枕:イスノキという木は初めて聞きました。
 
松山:このイスノキの木で作った櫛は、縄文遺跡や平城宮趾からも多く発掘されており、貴族の中では広く普及していたものだったようです。
 
歌枕:小國神社の御神木は、どのようにして櫛にしていったのですか。
 
松山:木目がうねっていて、とても素直ではないので、櫛にできるか分からなかったのですが、せっかくのご縁を切ってはいけないと思い、5~6年の間、寝かせて様子を見させてほしいと御神木をいただきました。
 
歌枕:とても歳月のかかることですね。
 
松山:3年したところで我慢できず、根付けならサイズが小さく、髪を解くために使うのではないので櫛を作ってみました。
 
歌枕:櫛を作られていかがでしたでしょうか。
 
松山:完成したものは必ず宮司さんのところへお持ちするのですが、その時に宮司さんより「門前に横丁ができるので、そこで櫛を売ってくれませんか。」とお声をかけていただきました。
 
歌枕:そのようなご縁に繋がったのですね。
 
松山:木を寝かせて5年頃から櫛を作り始めましたが、だんだんと材料もなくなってきたので、3年ほど前にことまち横丁で販売するのを辞め、本当に欲しいという方だけにお渡しすることにしました。
 
歌枕:そのうちの一つを先日いただき、とても大切に使わせていただいております。
 
松山:小國神社と櫛のご縁がこのように繋がり嬉しく思います。
 
黄楊の小櫛
 
歌枕:万葉集の中で播磨の娘女が詠んだ「春愁-約束された別れ-」として歌わせていただいているのですが、その和歌の中で『黄楊の小櫛も 取らむとも思わず』とあり、以前から黄楊櫛はとても気になっていました。
 
松山:櫛というものは、古くから形見の象徴でした。宮中行事でも、天皇が伊勢に行く斎宮に対して、櫛を渡す「別れの御櫛」(わかれのおぐし)というものがありました。
 
歌枕:古来からそのような意味が込められているのですね。
 
松山:黄楊という素材は、硬くて粘り気があるので、折れにくく櫛に向いています。先程、お話したイスノキは粘り気はなく、ただ硬い素材です。
 
歌枕:木にも感触の違いがあるのですね。現在はどのような木材を使っているのですか。
 
松山:鹿児島県の指宿周辺に生えている薩摩黄楊を五年ほど寝かせて使っています。20年程前まではタイ産の本黄楊材を使っていたのですが、温暖化防止で輸出禁止になりました。そして、日本の櫛屋さんが困って、日本産の木材を使い始めました。
 
歌枕:初めて知りました。
 
松山:日本産の木材は木目の癖がとても強く、特に薩摩産はパンチがあります。父は一等品にこだわっていましたが、だんだん良い木材を取りつくして、黒いやにの線が入っていたり、木目の線が入っていて、嫌だと思ってもそれを捨てていると櫛にできるものがなくなってしまうので、上手く櫛の目になるようになど、工夫をして作っています。
 
歌枕:そんな事情があるのですね。
 
松山:ところが櫛が好きで研究され、遠方からお越しくださるお客様のなかには、それが個性があって良いと言ってくださる方もいらっしゃいます。
 
歌枕:視点を変えると違った面白さにも繋がりますね。松山さんのお父様は、白洲正子さんの「日本のたくみ」に取り上げられており、それを拝読し、松山さんを知るきっかけになりました。ぜひお会いしたいけれども、どうやって連絡を取ろうかと思っていたところに、宝林寺さんのインスタグラムに松山さんのことが紹介されており、ご縁を頂戴いたしました。
 
松山:ご縁が繋がり私も嬉しく思います。
 
歌枕:松山さんで4代目の櫛職人ということですが、元々どのような家系だったのですか。
 
松山:幕末の頃は江戸で下級武士をしていたようです。明治に入り、まだ髷を落としていない時代に、江戸から浜松にやってきて、櫛屋をはじめたようです。
 
歌枕:櫛を作る技術をお持ちだったのですか。
 
松山:下級武士だったので、それだけでは生活できず、江戸で櫛を作る内職をしていたようです。他にも傘張りや、行灯の絵付けなどの仕事をしている人もいたようです。
 
歌枕:そこから4代目まで続いたのですね。
 
松山:江戸から浜松に来た際に櫛を作る道具や、はたまた墓石も大八車で持ってきたようです。そして浜松のこの地で四代に渡って櫛作りを継承してきました。
 
歌枕:時代の波はありませんでしたか。
 
松山:戦後、父の代の時にプラスティックの櫛が主流となり、建前として櫛屋は廃業となりました。しかし、ご近所で髪を結っている女性がまだいらしたので、サラリーマンをしながらぼちぼち内職として櫛を作っていました。60歳で定年退職した後に、櫛を専業で作り始め、そうこうしているうちに櫛の製作技術が無形文化財に指定されました。
 
歌枕:日常生活に当たり前にありながら、櫛の歴史の奥深さを感じます
 
松山:父はさまざまな遺跡や古墳で発掘された櫛を復元することもしていました。櫛が発掘されたと聞くと実際に現地まで行って、調べていました。
 
歌枕:とても研究熱心だったのですね。
 
松山:福井県で発見された縄文時代前期(六千年前)の赤漆塗りの櫛や、象牙でできた櫛、はまたま猿田彦が付けていた大きな櫛など、本当に様々なものを研究し、復元していました。
 
歌枕:どれも本当に美しいです。
 
松山:歌枕さんも季節や雰囲気の違う中で、どんな体調であっても常に最高の内容を演じられ、本当に素晴らしいです。今後ともご活躍を楽しみにしています。
 
歌枕:ありがとうございます。本日は貴重なお話をありがとうございました。
 
 

松山 順一(まつやま じゅんいち)

静岡県内唯一、4代目つげ櫛職人。

2005年3代目鐵男氏が亡くなったのをきっかけに、58歳の時、つげ櫛職人を志す。

日本民藝館展入選