歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.83 岩田光義

 
 
中部楽器技術専門学校を創立され、現在は菰野ピアノ歴史館の理事長をされている岩田光義さんにお話をお伺いしました。
 
 

高度経済成長とピアノ
 
歌枕直美(以下、歌枕):先日は菰野ピアノ歴史館を訪ねさせていただいた際に、さまざまなお話をありがとうございました。戦後、ピアノ技術者として新しいことを発想され、歩んでこられましたが、ピアノ技術者になられたきっかけはおありでしょうか。
 
岩田光義(以下、岩田):学生の頃から音楽が好きで、レコード喫茶によく入り浸って聴いていました。ピアノ技術者になればプロの演奏会が舞台袖で無料で聴けると言う簡単な発想が、ピアノ技術者を志願したきっかけでした。()
 
歌枕:ピアノ技術は学校で学ばれたのでしょうか。
 
岩田:当時調律を学ぶ学校はほとんどなく、ピアノ製造メーカーの研修所でピアノ技術を学びました。当時の昭和四十年代は爆発的にピアノが売れた時代で調律師はすごく忙しい時代でした。
 
歌枕:小学校でもクラスの二人に一人はピアノを習っていた記憶があります。
 
岩田:ピアノ調律は一台仕上げるには、どうしても一~二時間必要です。一日に調律できる台数が限りがありますから、調律が追い付かなく遅れることが多くありました。
 
歌枕:その解決策として、何を考えられたのでしょうか。
 
岩田:弟子を取ってピアノ技術者を育成して、ピアノ調律者を養成する事を思い立ちました。
 
歌枕:弟子の呼びかけはどのようにされたのですか。
 
岩田:数名募ったのですが、沢山の調律志願者があり驚きました。従って弟子を取る事が養成所をつくる事になったのです。私の調律の仕事と養成所での指導の両立でとてもハードな毎日でした。ほとんど寝る時間がないくらい忙しい時代でした。
 
歌枕:それほど、ピアノ技術者の仕事は注目されたのですね。
 
岩田:この当時、ピアノメーカーに所属しているピアノ技術者はいましたが、彼らはあくまでもメーカーで購入したピアノのアフターサービスするピアノ技術者が殆どでした。ピアノメーカーは調律技術中心の養成でしたが私の養成所では調律技術と併せて、修理等もできるピアノ技術者育成に力を注いで来ました。そして養成所開設二年目からは「中部ピアノ調律専門学校」として養成所から専門学校へと変更しました。
 
 
 
実学
 
歌枕:岩田さんがピアノ技術者を育てていく中で、大切にしたことはありますか。
 
岩田:自分のキヤリアを活かし現場で経験した事を活用して指導に取り入れたりしました。教科書の世界だけでなく、実学が社会に出てから大いに役立つと思い、学生たちに伝えてきました。
 
 
歌枕:経験したからこそ、伝えることができることがありますね。
 
岩田:もちろん実学だけでなく教科書もオリジナルなものを作っていろいろ工夫して教えていきました。もちろん文献書などでも沢山の勉強をしました。
 
歌枕:学生さんたちの様子はいかがでしたでしょうか。
 
岩田:教科書的な一つの答えではなく、ケースごとのさまざまな対応には応用がとても大切であることから、学生自ら考え工夫することを指導してきました。
 
歌枕:自分で考えて行動していくことは大切ですね。
 
岩田:私は昭和十六年生まれで、名古屋の大空襲を経験しています。空襲が終わっても焼夷弾が落ちてくる、そんな中で生き延び、何もないところから生活をしていった苦労話を生徒たちにもしましたが、余りにも昔との時代の違いは伝わりにくく、実学の中から違う形で伝える工夫をいろいろとしました。
 
歌枕:戦争を経験している人と、戦後では教育の何かが変わったと感じます。
 
岩田:自分で生きていかなければいけない時代から親などに頼れる時代、即ち甘えの時代に大きく変わったことに気が付きました。
 
歌枕:戦中と戦後というのが、日本のキーワードですね。また岩田さんは教師としての立場だけでなく、学校を運営していく立場でもありましたが、どういうことを考えて現在のような学校の形にされたのでしょうか。
 
岩田:学校を開校して十年目の時に、これからの時代はピアノの普及が進み、ピアノもデジタルの電子楽器が多くなってくるのではとの予測をしました。また就職していく卒業生は楽器店が多くピアノの技術者だけでなく他の楽器技術者も必要とされている事が楽器店からの要望でわかり、ピアノ技術者に加えて管楽器やギター、バイオリンなどの技術者の養成も開設、学校名を「中部楽器技術専門学校」と改めました。
 
歌枕:先見の明があったのですね。
 
岩田:企業の研修所とは違い、技術養成に加え、社会で活躍する人材を育てていく為に人間教育にも多くの時間を費やしてきました。今ではその卒業生たちが私の何よりもの宝物です。
 
歌枕:社会に羽ばたいていった学生さんたちが、日本全国はもとより、そしてはたまた世界で活躍していますね。
 
岩田:うたまくらの荒木君も中部楽器技術専門学校の出身で活躍していて、とても嬉しいことです。本人の努力にもエールを贈りたいですね。
 
歌枕:荒木は専門学校卒業後、七年間、イタリアに修業に行っていましたが、イタリアとの繋がりはあったのでしょうか。
 
岩田:今もそうですが、日本製ピアノは良いという評判があり、日本のピアノが多く海外へ輸出されていました。その一つにイタリアのナポリに大きな楽器商があり、輸入された日本のピアノを調整できる日本人技術者が求められていた事から、ピアノ技術者をナポリへ派遣したのです。次第にイタリアの楽器店が日本からの技術者を評価し沢山の卒業生が、ナポリの楽器店と繋がりができ、これまで十二人ほど派遣しました。
 
歌枕:日本のピアノ技術は世界的にも評価が高いのですね。そのような人材育成をされ、素晴らしいです。
 
岩田:十年前に学校理事長を後継者にバトンタッチしましたが、その時に後継者と約束したのは「学校は卒業生たちの戸籍(本籍)なのです。卒業生が自分の学校に誇りが持て、自慢の出来るような学校にしていってほしい。」ということを伝えました。
 
歌枕:出身校が大きくなる事より、卒業生が自信を持って後世に語れることが、とても大切なポイントですね。
 
岩田:私が理事長を務めているときは、調律師養成の学校でナンバーワンを目指すという事が目標でしたが、調律学校もだんだん少なくなり淘汰されて現在ではオンリーワンに近い状況です。
 
 
菰野ピアノ歴史館
 
歌枕:菰野ピアノ歴史館のような歴史的なピアノの博物館をつくられたきっかけは、どのような事からですか。
 
岩田:菰野ピアノ歴史館のこの場所は、もともとは中部楽器技術専門の合宿研修センターとして使用していました。ところがコロナの流行で合宿ができなくなり、この場所を閉鎖することになりました。それ迄、合宿研修センターに教材として置いていた歴史的なピアノの数々をどのように処分するかを思案していました。
 
歌枕:歴史的鍵盤はどのくらいお持ちだったのですか。
 
岩田:四十年間にわたり蒐集した、ピアノは五十台ほどです。
 
歌枕:たくさんの台数をお持ちだったのですね。今の博物館へと決断された動機は、そして開館されるまで大変なご苦労だったのでしょうね
 
岩田:研修所を閉鎖してピアノを処分しようと思っていましたが、多くのピアノ技術者の仲間たちが、これだけのピアノを処分するのは惜しいもったいないと言い、技術者の多くの方が応援し、修復に協力するので残してピアノ愛好者に開放しようと云うことになり非営利活動法人の認可を取り、ピアノ歴史博物館を設立する事になりました。
 
歌枕:素敵な応援部隊がいたのですね。どのような博物館を創ろうと思われましたか。
 
岩田:私が目指した博物館は、このような歴史的なピアノを見てもらうだけでなく、その時代の歴史的な音を再現し実際弾けるようにして、音色を体感してもらうことでした。他の楽器博物館にも歴史的鍵盤が展示されていますが、完全に楽器が弾ける状態まで修復されていることは少ないですね。
 
歌枕:蒐集された歴史的ピアノを修復されるには大変なご苦労があったのでしょうね。
 
岩田:応援してくれる仲間たちが時には泊まり込みで修理修復に励んでくれました、現在までに二十九台のピアノが弾けるように修復されました。
 
歌枕:歴史的なピアノの部品などには今のピアノと違い部品など材料の調達はどうされたのですか。
 
岩田:学校経営している時代に世界各地のいろんな方と繋がりができた関係から紹介いただきドイツ・オランダ・ベルギー・フランスなどのアンティーク市場などとのつながりから調達しています。
 
歌枕:広く世界中にコンタクトをお持ちなのですね。また歴史的な音を後世に残す事はとても意義のある事ですね。
 
岩田:楽譜は残っているので、今のピアノで弾いて再現をすることはできても、どのような音色だったのかは、ドビュッシーの時代までは録音という装置がなかったので残されていません。また楽譜によっては今のピアノに置き換えたものなどなので、作曲者の原曲の貴重な研究資料として、来館され研究の材料として使われています。
 
歌枕:これだけ沢山の歴史的なピアノを維持していくことも大変ではありませんか。
 
岩田:菰野ピアノ歴史館の維持運営費には相当な費用を必要としています。寄付金や入館料で賄っていますが、資金はまだまだ必要です。ご来館頂く皆様にご理解頂ける方が増えてきていますので、ご寄附頂く方々のご理解で運営いたしています。私自身も八十歳過ぎになり、ピアノを通じて音楽文化創造に貢献していく事を人生最後の生き甲斐としています。もちろん私を応援をしてくれてるたくさんのボランテイアさん達がいてくれることも心強いです。お金も必要ですが、健康で元気である事がとても大切ですよね。(笑)
 
歌枕:大事なことですね。(笑)
 
岩田:七十歳の時に学校理事長を引退し、時計の針がゆっくりになった感がありましたが、コロナウイルスの三年前からまた時計の針が活発に動き出してきました。
 
歌枕:コロナウイルスのお陰とも言えますね。
 
岩田:開館から一年五ヶ月になります。現在では全国各地から実際に時代ごとのピアノが観て、弾いて、聴けると大好評で来館者は七千名を越えました。
 
歌枕:うたまくら茶論にも、バッハの時代に活躍していたクラヴィコードからチェンバロ・フォルテピアノ・そして一八八九年製のベヒシュタインピアノまでの歴史的鍵盤をコンサートで演奏しています。
 
岩田:そのような活動もされているのですね。
 
歌枕:歴史的鍵盤の音色やまた音量など実際に体験することは大切ですね。
 
岩田:博物館では現在も仲間たちが歴史的鍵盤の修復をしてくれており、二十九台の展示ピアノに加えて十数台のピアノも現在修復しています。展示の充実をご来館者の期待に応えて行ければと思っています。
 
歌枕:大切な活動だと思います。
 
岩田:歌枕さんも各地域の歴史を作品にされ、地元の方々やピアノフアンにとっては嬉しいことですね。これからも頑張ってください。楽しみにしいます。
 
歌枕:ありがとうございます。本日は貴重なお話をありがとうございました。
 
 

岩田  光義(いわた  みつよし)

NPO法人菰野ピアノ歴史館 代表理事

一九七九年ピアノ調律師養成学校開校準備のため、中部ピアノ調律専門学院を設立。

翌年一九八〇年中部ピアノ調律専門学校を開校、理事長となる。

二〇一〇年理事長を退職、相談役となる。

二〇二一年菰野ピアノ歴史館を開館現在代表理事。