歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.82 常盤勝範

 
 
先代住職の意思を継ぎ、住職の仕事のほか、老人ホーム運営や社会奉仕活動など、三十数年にわたるお話を伺いました。
 
 

自由の国
 
歌枕直美(以下、歌枕):本日は、歴史ある壺阪寺本堂でご奉納演奏をさせていただきありがとうございました。お父様である壺阪寺先代住職の常盤勝憲先生への御礼もお伝えすることができ、三十五年の思いが叶いました。
 
常盤勝範(以下、常盤):御本尊様の前でご奉納していただき、ありがとうございました。ここまで繋がったご縁を感じております。
 
歌枕:また先日は、うたまくら社三十周年記念誌での対談にもご登場頂きまして、ありがとうございました。その時は、先師について語り合わせていただくことができ大変嬉しかったです。今日は、ご住職のお話をお聞かせください。お父様の後を継ぎ壺阪寺のご住職になられることになる前は、何をなさっておられましたか?
 
常盤:アメリカのネブラスカ大学の大学院で植物遺伝学を学んでいました。
 
歌枕:植物遺伝学ですか?珍しいですね。どうしてその道を選ばれたのですか?
 
常盤:将来の職業について、父と話した時に、世界的な仕事として人の食べ物、遺伝学的なものを勉強するのも良いのではないかとのアドヴァイスがありました。その時は、コンピューターとかオタクっぽいものをやっていたのですが、当時はまだ冷戦時代でしたから電子工学の勉強をしてもシェアが半分しかないですし、人気がある分野でたくさんの人がやっていましたから希少価値がないと思い、人間のエッセンシャルな勉強が良いと思い鳥取大学農学部に進みました。
 
歌枕:そしてアメリカに行かれたのですか?
 
常盤:はい。農業国というとアメリカしかないと、アメリカの学位を取ったら就職に有利と思い留学しました。
 
歌枕:アメリカの大学院では、指導法とか違うのですか?
 
常盤:自分たちで決めてしっかり勉強しなさいという感じで、色々と考えさせられました。
 
歌枕:実際に住まれて、アメリカという国はいかがでしたか?
 
常盤:自由な国でしたね。アメリカに行ったときは、言葉もあまり話せませんでしたが、とても親切であんな国はなかなかないでしょうね。人種差別とか報道されていますが、そういうことはなかったですね。当時は、本当に自由で伸び伸びしていました。
 
歌枕:自由な国ですか。素晴らしいですね。
 
常盤:しかしアメリカは、その後変わっていきました。一九八七年頃、多くの若者がベトナム戦争へ行き、アメリカに戻って来られた方の多くがPTSDPost Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)を発症していました。
 
歌枕:どの地域の若者が多く行かれたのでしょうか。
 
常盤:ベトナム戦争へは、ミシシッピ州などアメリカ中南部のプアホアイトと呼ばれる人たちが多い地域に偏っていたようです。
 
歌枕:プアホアイトとは、どのような方々でしょうか?
 
常盤:プアホアイトは貧しい白人層の方々で、代表的なのはマドンナですね。プアホアイトでベトナム戦争から戻りPTSDを発症した人たちは、普通に働き収入を得ることができなくなっていました。
 
歌枕:その方々は、どうやって生計をたてていらしたのですか?
 
常盤:路上で絵を売り生計を立てている人が多かったようですね。そのような人は皆、赤と黄色が基調の絵を描いていたそうです。
 
歌枕:なぜそのような色を使われるのでしょうか。
 
常盤:黄と赤はベトナムを象徴する色と聞きました。事情を理解しているアメリカの人々は、彼らの生活が成り立つようにとこの絵を購入していました。
 
歌枕:アメリカと言うと、二〇〇一年九月十一日同時多発テロ事件を思い出します。当時テレビで事件の映像を見ている時に、怖いと思いながらも映画を観ているようで本当に起こっていることと思えませんでした。
 
常盤:ニューヨークのど真ん中で信じられない事件でした。その後、アメリカは自由を尊ぶよりも、自由を守る国に変わっていきました。
 
 
意思の継承
 
歌枕:アメリカでの留学中にお父様が倒れられて、日本に戻られたのでしょうか。
 
常盤:はい。自分の世界を求めようとアメリカに行きましたが、父が病に倒れ、結局一年しかいることができませんでした。
 
歌枕:その時は、どのようなお気持ちでしたでしょうか。
 
常盤:父は、お寺の住職の仕事のほか、目の不自由な人を対象とする老人ホーム慈母園の運営や社会奉仕・インドでのハンセン病患者の救済活動にも力をいれていましたので、あまりにも大きなことで、父の後を継ぐのは大変なことだと思いました。
 
歌枕:それでも継ぐ決心をなされ、住職となられたのですね。
 
常盤:はい。誰がやるのか責任問題でした。父の事業に頼って働いている方が大勢おられたので、父が亡くなったからと、パッとやめるわけにはいきませんでした。
 
歌枕:後を継がれて、具体的にはどのようなことをなされましたか?
 
常盤:インドでのハンセン病患者の救済活動を継続し充実させるために、「財団法人アジア・アフリカ国際奉仕財団」を設立、父が生きていたらやらせていただろうと思うことを行いました。スケールを大きく考える人だったので、いろいろ理解するのが大変でした。
 
歌枕:お父様の意思を継がれ、立派なことだと思います。
 
常盤:また父の時代に、ハンセン病患者の救済活動のご縁から始まった石の事業がありまして、初めは救済活動のお礼にとインド政府から壺阪寺に大観音石像とレリーフが贈られました。それはインドで採掘された石で、インドの石工の皆さん達が造られたものです。
 
歌枕:その法要の時に、演奏で呼んでいただきました。その後も、石の事業を継続されたのでしょうか?
 
常盤:はい。そういう一連の流れとして、大きなお釈迦様の像や御堂などを造らせて頂きました。父のやっていた仕事に携わってくださっているインドの方々が大勢いらっしゃいましたので、その方々の仕事を守るため長く続けようと思いました。
 
歌枕:それは大変なことですね。結局、何年続けられましたか?
 
常盤:二〇一五年まで、三十八年間やらせて頂きました。今年十一月に父のインドでの功績を称えて、インド政府の方がお越しくださいます。
 
歌枕:インドとの深い信頼関係を作られ、素晴らしいことですね。
 
 
先人の知恵に学ぶ
 
常盤:いい加減には、「適当」と「良い加減」 のふたつの意味がありますが、「良い加減」というのが失われつつありますね。
 
歌枕:そうですね。良い加減というのが、難しいですね。ご住職は、インドの方々とのお仕事も多くあられますが、いかがですか?
 
常盤:インドでは、いい加減すぎて腹が立つことがありますが、その人たちの良いところを見抜こうとしていたら、野生の感覚を取り戻せます。(笑)
 
歌枕:野生の感覚、それはすごいですね。勘が働き見抜く力は重要ですね。日本人、そんなに馬鹿ではないと思うのですが、律儀すぎて「良い加減」の加減を見ることがなくなってきたら良くないですね。
 
常盤:人間工学を学んでおく、この人にこう言ったらこう思われる、こうなるという「人」でなく「人間」が重要ですね。パッと見て、誰が偉いか見抜く力がアジア人はすごい、それが日本人にはない。情報量が多くて、野生の感覚がない。父とか昭和一桁の人には、この人に何を言えば良いか、今このタイミングでとか、そういう感覚があってアジアで商売ができたと思います。最近、江戸時代はなぜ二六〇年続いたのかに興味があり、壺阪寺の江戸時代の古文書を読み直しています。
 
歌枕:壺阪寺の江戸時代の古文書が残されているのですか?
 
常盤:はい。その漢文で書かれた古文書を読むために、漢文の勉強をやり直しました。
 
歌枕:そこから何か学びはありましたでしょうか。
 
常盤:今の日本は東京に全てのことが集約されていますが、当時は完全なる地方分権、三百の藩がそれぞれのやり方でしっかりと納めていました。江戸時代の考え方は今にも生きる最先端の自治のあり方がありました。日本人は、きれいな格差になってしまっていて、みんな自分のことを守ろうとしていくから、政治も福祉もおかしくなっていると思います。日本はスカスカになっていると思います。
 
歌枕:先人の知恵に学び、これからを見直していかないといけないですね。今日は、この壺阪寺に来させていただいて、畝傍山、二上山そして遠くまでを見渡せて、また藤原京・天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳から壺阪寺までの聖なるラインを感じることができ本当に良かったです。
 
常盤:こちらこそお参りいただきありがとうございました。
 
 
歌枕:本日は、うたまくら三十周年誌に続き、貴重なお話をありがとうございました。
 
 
 

常盤  勝範(ときわ  しょうはん)

昭和三十七年奈良県生まれ。

西国六番霊場 壺阪寺(南法華寺)住職。

鳥取大学大学院修了、平成元年壺阪寺住職就任。同年、昭和四十年代より続くインドでのハンセン病患者救済活動を継続し充実させるため、「財団法人アジア・アフリカ国際奉仕財団」を設立。(平成二十五年一般財団法人移行)

また、日本最初の盲老人ホーム慈母園並びに、特別養護老人ホーム第二慈母園、障害者支援施設明日香園等、五施設を運営する「社会福祉法人壺阪寺聚徳会」理事長。

平成二十一年一般財団法人奈良県ビジターズビューロー評議員就任。

平成二十三年特定非営利活動法人 全国盲人福祉施設連絡協議会事務局長就任。

平成二十五年より日本総合研究所(厚生労働省研究機関)老人保険健康増進等事業検討委員会委員就任。