歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.64 シコラご夫妻

バルト海沿岸にあるポーランドの湾岸都市グダンスクにて、シコラご夫妻に日本の来日アーティストの先駆者・チェリストであるおじいさまについてお話をお伺いしました。

■変動の百年
歌枕直美(以下、歌枕):お久しぶりです。今日は歴史ある素敵なお店で、迎えてくださりありがとうございます。

マリア・シコラ(以下、マリア):ようこそおいでくださいました。歌枕さんがお友達になってくださり、ここまでお越し下さって本当に嬉しいです。はじめてポーランド日本情報工科大学で歌枕さんの演奏を聴いたとき興奮をして動くこともできず、そして言葉にならないくらい深い感動を受けました。次に歌枕さんのコンサートがあると聞いたとき、どうしても行かなくっちゃと急いで行きました。

歌枕:ありがとうございます。その時の事を良く覚えています。

マリア:今度は、歌枕さんのことをもっと知りたい、お話をしたいと思い、日本と縁のある主人のおじいさんボグミウ・シコラのことをお話ししました。

歌枕:百年前の日本でのコンサートなどの写真や資料をみせていただき、チェリストのボグミウ・シコラさんにとても関心を持ちました。マリアさんよりいただいた資料や写真など貴重な物がたくさんありましたが、ご主人のお父様がお持ちだった物ですか?

イェジ・シコラ(以下、イェジ):残念ですが、私の両親が保存していた物の中に祖父に関係のあるものは、何枚かの写真と一つのファイルだけでした。その理由は、第二次世界大戦の終わり頃に、ヴィルニアスにあった家で、集められていたたくさんのコンサートツアーの記念のものは全て、家と共に燃えてしまいました。一九三六年から、祖父は、コンサートツアーの目的で、米国に出かけていました。米国に滞在していた時には、第二次世界大戦が始まりました。

歌枕:それがどういうきっかけで調べられることになりましたか?

マリア:四十年前のことですが、ある日、グダンスクにある主人の両親の家を訪ねていた時、昔の大変な時代についての会話をしていました。すると、私の姑は、歴史のある箱を取り出して、主人の祖父ボグミウの写真と、ある会報誌を見せてくれました。舅はチェリストである祖父のことと彼の二十七か国でのコンサートについて話をしてくれました。私はそのお話に魅力を感じ、主人の祖父についてより調べるように頑張りたいと思いました。

歌枕:それは、大変でなことではなかったでしょうか?

マリア:五十年かかりました。第二次世界大戦で、たくさん変わりました。祖父の最初の妻は亡くなり、ポーランドに住んでいた二人の息子は自分の父と会えなくなりました。歴史の流れは私たちの家族に、深い影響がありました。その五年後、祖父はアメリカ人女性と再婚し二人の息子がいますが、新しい家族との連絡はほぼ五十年間ありませんでした。結局、私たちの米国の友達を通して、その家族との連絡が取れるようになりました。こうして今まで知らなかった家族を知るようになり、嬉しさと同時に、家族の資料などもいただけました。

歌枕:そのような時代だからかと思いますが、日本にある資料ではシコラさんは、ロシア人とかチェコ人とか、様々な情報が出ていますが、実際には国籍はどちらでいらっしゃいますか?

イェジ:国籍はチェコですが、ロシアの街、グリニスクで、一八八四年一月十五日に生まれました。グリニスクは元々ロシアの街でしたが、その後はポーランドの街になりました。当時のヨーロッパの国々の国境は不安定でした。

歌枕:そういう事だったのですね。ヨーロッパの大変な時代、変動の百年ですね。

マリア:はい。祖父のポーランドとの関係は、他にもありました。妻がポーランド人で三人の息子を授かりました。その内の二人はお母さんと一緒に一九二四年に、ポーランドのヴィルニアスに戻りずっと住んでいました。


■徳川頼貞氏

歌枕:シコラさんが日本にいらしたきっかけは、どいうところからでしょうか。

イェジ:祖父は、コンサートで数多くの国々を訪れていました。一九一六年横浜にいるロシアの領事に手紙で日本でのコンサートの主催が可能かどうかについて問い合わせをしました。それに対して領事から「日本は綺麗な国です。しかしながら、私のこちらの三十年あまりの滞在ですが、成功した海外のアーテイストは一人もいません。」との返答がありました。

歌枕:それでどのようになりましたか?

イェジ:その後、彼には幸運が訪れました。ニューヨークのカーネギーホールなど、米国でコンサートをした後、一九一七年に当時オランダのものであった東インドに、横浜経由で行く船に乗りました。横浜に寄り、ロシアから横浜に来ていた妻と二人の息子に会いに行きました。横浜にいるロシアの移民は彼が横浜にいることを聞いて、コンサートをするように頼みました。

マリア:最初のコンサートは横浜ゲーテ屋というところで、二番目は東京のロッシ劇場で行いました。両方とも、会場が外国人の聴衆で満員で、そのお陰で外国人のアーティストに対しての当時の日本人の態度が変わったようです。そして、若い祖父は、外国人のアーティストのパイオニアになりました。また、東京のコンサートの時に、素晴らしい出来事がありました。

歌枕:徳川頼貞さんとの出会いですね。

マリア:コンサート後、大使館の長官が、祖父にステージに徳川頼貞さんからの花束もあるとおっしゃり、ご紹介くださいました。その後、徳川さんから、お家の訪問の誘いが来ました。そのように、定期的な交流会が始まりました。そして、徳川さんから、徳川さんが、「Nanki Bunko」という自費で建てたコンサートホールオープニングの皇帝交響楽団とのコンサートの誘いが来ました。ホールの収容人数が四百人、そしてイギリスからのパイプオルガンも新しく設置していました。そこで皇室のためのコンサートが行われました。祖父は日本に三年間滞在し、東京、京都、大阪、神戸、名古屋などの都市で、八十一回のコンサートを行いました。

歌枕:素晴らしい出会いですね。徳川頼貞さんは、徳川家と宮家の血筋を引く方です。そして西洋音楽への造詣が深く、戦前に個人資産を投資して西洋音楽を日本に取り入れ「音楽の殿様」と呼ばれた方です。この徳川頼貞さんのことを書いた本の中に、シコラさんのことがが紹介されていました。
一九一八年東京音楽学校・奏楽堂での演奏会にて(学習院教授・小松耕輔)
「…立派な芸術家で、実にすぐれた技巧を持っていた。当時、彼にまさる音楽家がまだ来日していなかった。聴衆はほとんど魅せられてしまった。…拍手は急霰の如く下って止むところをしらなかった。」(抜粋)と書かれていました。

イェジ・マリア:日本の本にそのように残されていて、本当に嬉しいです。


■ポーランドと日本

歌枕:おじいさまの日本の印象はいかがだったのでしょうか。

イェジ:日本での生活を好んでいました。特に人々のオープンハートと敏感な心が好きだったようです。そして、日本の歴史と文化に興味がありました。それから、そのような素晴らしい国で、外国のアーティストのパイオニアになったことが嬉しかったようです。

歌枕:シコラさんは、日本において大きな功績を残されました。そして徳川さんと出会われ、より日本との縁が深まられたのですね。

マリア:そうですね。それはまるで今の私たちみたい。歌枕さんと出会い日本との交流ができて大変嬉しいです。

歌枕:私も、このような伝統ある素晴らしいレストランで海外初の茶論コンサートをさせていただき、また夢の様な時間を共有させてもらい、大変感激しています。

マリア:歌枕さんの歌声は刀のように空気をきります。言葉がわからなくても聴衆の心を感動をさせます。そして私は、歌枕さんの歌を聴きながら頭の中で想像し、自分の物語を作り上げていました。これからも歌枕さんにここポーランド・グダンスクでコンサートを行ってほしいです。そして多くの人に聴いていただきたいと願っています。

歌枕:ありがとうございます。必ずまたグダンスクに来ます。今日は貴重なお話をありがとうございました。またマリアさんも日本にお越し下さい。お待ちしております。




Maria Sykora (マリア・シコラ)

グダニスク大学卒業。

詩人、芸術家、ガラス画家、ジュエリーデザイナー、鍵盤楽器奏者



Jerzy Sykora (イェジ・シコラ)

グダニスク工科大学卒業。何十年にわたり、海にかかわる仕事に携わる。専門は船の電気設置。