歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.49 野村明雄

関西経済会のリーダーとして活躍され、万葉集をはじめ文化にも造詣の深い、大阪ガス相談役の野村明雄氏にお話しをお伺いしました。

■歌う万葉集
 
歌枕直美(以下歌枕):昨年末の大阪府神社庁年末懇親会にて、お声がけいただきましてありがとうございました。
 
野村明雄(以下野村):ずいぶん前から、歌枕先生のCDを聴かせていただいており、懇親会で演奏されると知って、とても楽しみにしていました。
 
歌枕:その時、万葉集との出会いのお話しを伺い、もっと聞かせていただきたいと、厚かましくおしかけて来た次第です。(笑)
 
野村:万葉歌を理解するには、その歌が詠まれた時代や場所、歴史、風土を踏まえて解釈することが大切だと思っています。このことは、中学、高校の6年間、国語・漢文を習い、生涯の師と仰ぐ勝山先生から教わったことで、私自身、万葉歌を学ぶ時に常に心がけていることです。先生が例示されたのは、中大兄皇子の「大和三山の妻争いの歌」で、この歌は、そこに詠まれている播磨・印南国原の地が先生の生まれ故郷であったこともあり、大変思い出深い歌の1つになっています。
 
歌枕:素晴らしい恩師に巡り会われ、それがきっかけで万葉集に興味を持たれたのですね。
 
野村:はい。それから万葉歌は、声に出して歌うものだとも教えられ、自分で勝手に節をつけて歌っておりました。(笑)そして、歌枕さんのCD「あさね髪」に出会い、まさにこれだと思いました。
 
歌枕:大変光栄です。ありがとうございます。10代の時に、文学に興味を持たれ、それを専門にとは思われませんでしたか?
 
野村:そこまでは。大学を卒業したらすぐに就職したいと思っておりましたので、法学部に進みました。
 
歌枕:その後、大阪ガスに入社されたのは、どのようなきっかけでしょうか。
 
野村:大学時代の恩師からは「世の中のためになる仕事をしなさい」と教えられました。その中で、鉄道やエネルギー関係の会社の面接を受け、1番早く内定をもらった大阪ガスに入りました。ガス事業は地域に密着した公益事業で、まさに人の役に立てる仕事だと思いました。
 
■心の支え
  
歌枕:半世紀、大阪ガスで働いてこられた中で、時には挫折もおありではなかったでしょうか。
 
野村:私が入社した1958年(昭和33年)当時の大阪ガスのお客さま数は100万戸で、今は700万戸です。私自身は、まさに日本の、そして会社の高度成長期に働いてきました。その間、天神橋6丁目でのガス爆発事故、オイルショック後のガス代の値上げ、そして阪神・淡路大震災など、幾多の試練がありました。
 
歌枕:大震災は、想像もしていない大変な災害でした。
 
野村:震災時には、私は副社長で、ガス事業部本部長を務めていました。2次災害を防ぐために86万戸のガス供給を停止しましたが、都市ガスは一旦止めますと、復旧までに相当な時間や人手がかかります。会社としては、短時間でギリギリの決断を迫られる緊迫した状況でした。
 
歌枕:言葉では言い表せない思いでいらっしゃったと思います。電気、ガス、水、いつも普通にあるものが止まると大変な思いをしますが、改めて考えたら、普通にあるということが凄いことだと思います。
 
野村:いえ、お客さまに「あって当たり前」と思っていただけるくらい、安全・安心にガスをお届けするよう努めなければなりません。復旧の最中には、お客さまからのご不満、お叱りもいろいろといただきましたが、それよりも遥かに多い激励や「ご苦労さん」という温かいお言葉をかけていただきました。
 
歌枕:そういう状況の中で「ご苦労さま」と言える日本人は民意が高いですね。
 
野村:私たちは、お客さまのそうした気持ちに支えられました。ある新聞に、「ガス復旧 先ず一番に 風呂立てて 老母の体 ぬくめまいらす」という短歌を投稿されたお客さまがおられ、今でも、その歌を思うと胸が熱くなります。復旧現場の隊員も、皆、涙を流していました。その他にも、励ましや労いのお手紙をたくさんいただき、本当に勇気付けられました。
 
■教育は希望
 
歌枕:他に、思い出はありますか。
 
野村:これまでの人生の中で、1年間だけですが、「先生」と呼ばれた時期がありました。入社3年後の25歳の時に、人事部教習所という社内学校が開設され、そこのクラス担任を務めました。西日本各地の中学校を卒業し、入社したばかりの15歳の少年たち40人が私の生徒でした。
 
歌枕:教師の仕事はいかがでしたでしょうか。
 
野村:「人」を扱う、あるいは「人」と関わることの難しさと素晴らしさ、その両方を学びました。ここでの一年の経験が、私にとって、その後の会社生活の礎となりました。人材は貸借対照表に表れない会社の財産であり、会社発展の原動力です。会社は社員の能力開発に責任を持つとともに、働きがいや自己実現など、社員にとっての会社の価値をいかに高めるかという課題に取り組まねばなりません。同時に、社員も仕事を通じて成長し、新たな仕事に挑戦する、そういった人と仕事の良いサイクルを築き上げていくのが「人間尊重の経営」にほかなりません。
 
歌枕:素晴らしいお話しですね。本当にそう思います。今日、お話しをお伺いするまで、経済界の先頭に立たれてる方が、こんなにも教育や文化的なことに造詣が深いとは思っておりませんでした。
 
野村:私などよりもずっと文化的な素養や趣味をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます。ただ経済人が表に出るときは、企業の業績や株価などの話題が多く、特にテレビや新聞などでは、そうした面だけがクローズアップされているのではないでしょうか。
 
歌枕:これからの大阪には何が必要だと思われますか。
 
野村:かつて、大阪の町人が自分たちの力で経済を起こし、そして文化を起こしたように、「金は天下のまわりもの」という思想が必要です。そのためには、当然、持続的な経済成長が欠かせません。行政にも一定の役割が必要であり、たとえば大阪府の文化・芸術関連の予算縮減は、大阪のためにも大変残念なことです。
 
歌枕:全く同感です。野村さんのお考えでは、経済成長するには何が必要でしょうか。
 
野村:日本人の「愛国心」「ハングリー精神」そして「勤勉さ」だと思います。それらを育むためのカギを握るのは、やはり、教育でしょう。
 
歌枕:以前新聞で、大阪大学の鷲田総長が、野村さんと今の*懐徳堂をつくろうと話されているのを拝見しました。
 
野村:江戸時代に大坂の商人が設立した私塾ですが、鷲田先生はその理念を今に受け継いで21世紀の懐徳堂をつくろうと、ご熱心に活動しておられます。
 
歌枕:野村さんのお話しをお伺いし、大変感動しました。1人ひとりが自分の役目をきっちり行い、誠実に生きていかなければならないと思いました。本日は、心にしみるお話しをありがとうございました。
 
*懐徳堂(かいとくどう)…江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所。明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災消失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。
 

野村 明雄 (のむら あきお)

昭和11年 2月 8日生

昭和33年 4月 大阪ガス株式会社入社

平成10年 6月 同社 代表取締役社長

平成15年 6月 同社 代表取締役会長

平成21年 6月 同社 相談役現在に至る

平成16年 3月から平成22年3月まで大阪商工会議所



三月十一日に発生した東北関東大震災で被災されました皆様に、お見舞いを申し上げます。また、被災地にて復興作業にあたられておられる方々に敬意を表しますとともに、これからの復興作業を無事に終えられますことを祈念いたします。

今号の対談は、三月九日に行われたものです。