セミナーレポート

うたまくら所蔵楽器の秘密

古楽器は博物館で眺めるものではありません。想像を絶するようなささやきのクラヴィコード、ピアノに至るまで進化を続けていた時代のフォルテピアノ。それはまさに楽器から作曲家と楽器との歴史、産業革命などの時代の流れ、そしてこれらを造った職人の精神が発信されているのです。

■楽器と作曲家の歴史

楽器はひとことで語ることはできない。宗教であり、生活であり、時代の流れがあるからこそ、その場での楽器のあり方が変わる。鍵盤楽器の原型のクラヴィコードは家庭での練習用、教育用として使われていた。古典音楽以前の話である宗教音楽的なもの、1400年頃から1850年頃の約400年間もの間の話である。そしてクラヴィコードは無くなってしまう運命をたどる。なぜ無くなってしまったのか。
 
一方チェンバロは1450年頃から1800年前半まで続くのでクラヴィコードとは時代が重なる。しかしどちらもずっと同じ形であったのではなく、試行錯誤を重ね、改良をし、音域が広がったり素材を変えたり、形を変えたりしていた。ちなみにピアノは1709年に生まれたとされているので、やはり時代は重なっている。なぜ鍵盤楽器は進化を続け、改良されていったのか。それは作曲家の要望に応えるために改良されていったのである。
 
例えばバッハ(1685~1750)はピアノができた時代にすでに生きていた。しかしなぜクラヴィコードを好み、クラヴィコードで曲をたくさん作っていたのだろうか(もちろんそればかり弾いていたのではないが)。クラヴィコードはイタリア・フランス・イギリスで全盛を向かえていたが廃れていき、ドイツで全盛を迎えていった。その頃にバッハは生きていた。 クラヴィコード・チェンバロ・フォルテピアノへと変遷していくその影には作曲家の様式の変化、要望があった。

 
 

■アーノルド・ドルメッチ(1858~1940・英)という人

うたまくらのクラヴィコードは「アーノルド・ドルメッチ社」が造ったものである。フォルテピアノが改良され、作曲家もピアノで作曲を行うようになり、演奏者もクラヴィコードを使わなくなって、クラヴィコードが姿を消して約50年後、ドルメッチは産業革命で機械化、大量生産が始まり職人による手作業の芸術品が消えていくことを拒み、自ら工芸品の復活運動を始めた。現在有名なリコーダーもその代表的な物の一つである。
 
ドルメッチは「作り手がいろんな表現を知らないといけない」と言うだけあって、クラヴィコードの名演奏家であったそうだ。工芸品が生活の一部であるという使われ方を望んだが、彼が亡くなった後、メーカーで残すように商品化して大量に生産するというものではない、職人による手作業の工芸品は、経営としても存続は厳しく、いいものだから続いていく、残っていくというものではなかった。

■それぞれのアクション

ヨーロッパならではと思うことが一つ。それはこれらの古楽器の部品が簡単に手に入るように部品メーカーがいまだに作り続けているということ。日本では特注が向こうでは当たり前。この土壌こそが次への世代へと受け継がれていく。

■語り継ぐもの

冒頭でも申し上げたように、こういった古楽器は飾っておくだけのものではなく、実際に演奏したり、知っている人を増やして語り継ぐことでその存在を生かしていくものだとうたまくらでは考えている。誰も知らないというのでは、語り継ぐ人、技術を継承する人が無くなり、いずれは消えてしまうのだ。良いものは発信しないといけない、その考えから、うたまくらでは古楽器を取り扱い、このような企画でご紹介し、少しでもたくさんの人に知っていただきたい、触れていただきたいと思っている。

お越しいただいた方から感想をいただきました。

楽器の変化が作曲家が影響しているということと、楽器の中を実際に見ることができてよく納得できた。フォルテピアノのハンマーが意外に繊細なものだと知ることができたのもこの機会だからこそで感動。 (Y.S)
 
思ったより楽器の変化が短期間で動いていったということに驚いた。知っている作曲家も短い期間にたくさん出てきて、いかに音楽が集中的に発展していったかがよくわかった。その変遷がこの工房で全部みれるなんてすごいです (C.S)
 
実際にクラヴィコードを弾いて見てビヴラートがかけられたり、表現力がすごくあるのに驚いた。指一本で変えられるなんて、バッハがその表現力を好んだといわれるのも納得。こんな小さい音で皆が楽しんだなんて、その時の世の中ってなんて静かだったのだろうと思う。きっと家も響きのいい造りだったのかな。 (C.M)